内田樹先生の『街場の憂国論』読了後、
すぐにこの中島岳志著『秋葉原事件』を読み進めました。

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僕がこの大事件についてコメントすることなどありません。

ただ、『街場の憂国論』のあとがきで内田樹さんはこんなことを書いています。
書き写します。


ひとりの村人が道を歩いていたら、堤防に小さな「蟻の穴」を見つけた。
何気なく小石をそこに詰め込んで穴を塞いだ。
その「蟻の穴」は、放置しておくと次の大雨のときそこから堤防が決壊して、
村を濁流に流すはずの穴だった。
でも、穴が塞がれたせいで、堤防は決壊せず、
村には何事も起きなかった。
この場合、穴を塞いだ人の功績は誰にも知らされることがありません。
本人も自分が村を救ったことを知らない。
そういうものです。
事故を未然に防いだ人たちの功績は決して顕彰されることがありません。
事故は起きていないのですから。
そういう人たちのちょっとした警戒心とささやかな配慮のおかげで
大きな災禍を回避できた場合があったということを
日本にもあったはずです。
でも、そのことは誰もしらない。本人もしらない。
そういう顕彰されることのない英雄のことを
「アンサング・ヒーロー」(unsung hero)と呼びます。
「歌われざる英雄」です(この言葉を僕は福岡伸一先生の『生物と無生物の間』で
教えてもらいました)。
この「アンサング・ヒーロー」たちの報われることのない努力によって
僕たちの社会はかろうじて成立している。
彼らのおかげで、この社会はきわどいところで破滅の淵で
踏みとどまって、とりあえずの安寧を保っている。
そういうふうに考える人がむかしはたくさんいたと思います。
それは言い換えると、ふとした気づかいをしたときに
(朝文起きして道の雪かきをしたときとか、
道ばたのガラスの破片を拾ったときとか)、
「もしかすると、これで誰かが傷つくリスクを少しだけでも
軽減できたのかもしれない……」という思いが
脳裏をよぎる人もそれだけ多かったということです。
「アンサング・ヒーローって、けっこうあちこちにいるよね
(私だって、もしかしたら、それと気づかないうちに
世界を救っているのかもしれない)」
という信憑が集団的に共有されている社会は、
そうでない社会よりもあきらかにリスクの少ない社会になる。
これは間違いがありません。
僕が日本の未来に危機を感じるのは、「アンサング・ヒーロー」が減ってきたことが
わかるからです。


内田樹さんはいくつかの著書でこの堤防の話を書いてます。
僕はこのくだりに近年、とても影響を受けています。

給料の半分を被災地に寄付するとか
街中のゴミを拾うとかそういう大仰なことではなく、
同じマンションの人に気持ちよく挨拶するとか
久しく会ってない人に「元気?」なんてメールを送るとか
日々の些細な気遣いが、実はどこかで誰かを救っているかもしれない。

やはりこれらの本を読んで想いを馳せるのはカンタローのことです。

これもここでたまに書くことですが、
僕が彼に投げかける言葉や与える物、共に過ごす時間や愛情はすべて
「お前は決してひとりじゃない」
の一言に集約されます。


それ以上、それ以下、なにものでもありません。
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